私の抱く虚しさの感覚に対して
人、様々、自己の中心となる感覚(または、自己が求める)があるように思います。
喜び、怒り、静けさ、美的・・・。
さて、私の中心的な感覚は虚しさだと思います。
子供時、親に理解されず、否定され続け、したいことも出来なかった、友達も極少・・・。
20歳時(大学)の記憶を思い出しました。
昼、テレビでワイドショ-(内容は忘れました)を見ていたのですが、内容があまりにもつまらないと思ったか、テレビの画面に水をぶっかけたことがあります。
楽しい内容でも、虚しいと思う感覚の私にとっては、目障りだったのでしょう。
そして虚しいと感じ続ける、また思い続けると、自分は何のために生きているのだろうと、問うてしまいます。
でも、何のために生きているか、何のために生まれたのか、問うても答えは出ず、その答えは、人生という道を歩む、旅をしながら見出すものです。
そして、私が虚しさに支配されないために重要なことは。
何か熱中するものを持つことです。
熱中していると、虚しいという感覚はなく、エネルギーが循環するのを感じます。
今の私が純粋に熱中していること。
それは、こうやって文字を書きつらねている時です。
他者からしたらヘンな文章かもしれません。
また、カウンセラーらしくない文章かもしれません。
でも、そんなことはどうでもいいのです。
私は文字を書き連ねるのが好きなのです。
好きだから書いているのです。
または、これしか出来ないから、これをする。
話しはそれるかもしれませんが
アーティストは一瞬で人を魅了する何かを創造したり、料理をつくる方も、見た目、味で人を喜ばせる。
私にはこのような能力はありません。
ただ、自分が生きてきた人生、独自の人生(誰しもが独自の人生です)において、経験してきたこと、学んだこと等を書きたい。
大袈裟な言葉を許して頂けるのであれば、自分の世界観を表現したい。
ただ、ただ、それだけのような気がします。
そして、この時、私は虚しさに支配されず、文字に集中出来、何か生きている実感を感じることが出来るのです。
虚しさに対しては、熱中出来る何かを持つこと。
そして、大切なこと
人には人の生き方がある。
人には人の在り方がある。
人には人の闘い方がある。
文字を書くことは、私なりの、生き方、在り方、闘い方かもしれません。