執着を手放すと苦しくなる

執着を手放すと楽になると言われています。
それは、私も理解しています。

何かに執着、しがみついている状態の時、人はそのことで頭がいっぱいで、他のことを考える余裕がなく、そのことに、ずっと注意集中、過熱状態中です。

例えば、恋愛において、彼(彼女)に執着して、何とかコチラに振り向かせたい、しかし、他者は自分の思い通りにコントロール出来ない。
したがって、彼(彼女)への執着を手放す。

すると、気持ちが楽になり、心も自由になり、視野も広がり、他に楽しみを探したり、また、趣味を通して、新しいお付き合いがはじまる。

これなど、執着を手放すと、楽になる一例です。

しかし、執着を手放すと苦しく例を2つ書きたいと思います。

1 ネットゲームへの執着(依存)

ゲームに依存する。
ゲームの中に友人がいたり、自己の有能感を感じている場合だと、ゲームは別世界にて展開され、現実には、その人の体はそこにあるのだけど、思考や感情、脳機能、動作はゲームの世界に持っていかれます。

でも、ゲームはやめられない。
脳がゲーム依存になっており、ゲームの世界から離れることが出来ない。

ゲームに執着している状態であり、脳がゲームの快感等を求めているのでしょう。
ゲームに執着と書きましたが、正確には、ゲーム依存という病気の時もあります。

ゲーム依存はゲームに執着しており、ゲームを手放すと苦痛を感じる。
脳がゲームの快感を求める。
脳がそうなっている。
したがって、ゲームへの執着を手放すと苦しくなる。

本人の意識では、ゲームへの執着を制御出来ない。
したがって、治療が必要となるのです。

そして、治療が終われば、ゲームへの執着もなくなり、ゲームを手放して楽になる状態に達するのでしょう。

2 仕事への執着

仕事への執着と書きましたが、人が仕事に求めるものは様々です。

そして、仕事に自己のアイディンティティを求め、仕事が自己のアイディンティティを満させるものであるとしたら、その人の仕事に対する熱、執着はすさまじいものがあると思います。

なぜなら、その仕事を通して、その人は、自分とは何者であるかを証明しているからです。
自分とは何者であるか、これは、仕事=自分である状態を示しています。

したがって、自分を維持するためには、その仕事が必要なのです。

もしその人が、仕事が出来ない状態になったら、どうなるでしょう。
それは、アイディンティティの喪失を意味するのです。

すなわち、自己喪失です。
自分とは何者であるか、語れなくなってしまうのです。

この人にとって、仕事とは自分であり、それゆえ、仕事に対する執着は強く、その仕事を通して、自分を維持しているのです。

しかし、その仕事を維持するため、仕事をする為に、相当な苦労があり、限界に達し、心身ともに危うい状態になってしまったとしたら、どうしましょう。

その時は、仕事から離れるしかないのです。

さて、問題はこの人にとって、仕事から離れると楽になるでしょうか?
仕事という執着の対象物から離れることになって、楽な気持ちになるでしょうか?
心が解放されたと、ホッとされるでしょうか?

いいえ。
私はそうは考えません。

仕事がアイディンティティであり、仕事=自分の人が、仕事を失う、奪われる、出来なくなるということは、その人にとっては、自己喪失であり、虚しさ、淋しさ、苦痛等の感情を、強く感じるのではないでしょうか。

執着を手放すことによって苦しくなるのです。

今まで注ぎ込んでいた情熱の対象を失い、自分とは何者であるか、アイディンティティの危機を迎えます。

したがって、よく言われているように、執着を手放すと楽になる、とはならないのです。

しかし、この人が人生を諦めず、今の自分を受け入れる努力を重ね、新しい価値観、新しい自己を創造することに、成功したならば、過去よりの脱却が図れ、もはや、仕事に対して執着する心理状態も薄くなるでしょう。

これは、脳を書き換えたことを意味すると、私は考えます。

そして、この状態になってはじめて、執着を手放すことにより楽になったと言えるのです。

そのためには、今の自分の状況、状態を受け入れ、新しい自分になるしかないのです。

過去の経験はまた別の場所で活かされることでしょう。

執着。

執着を手放すと楽になる前に、執着を手放したことにより苦しみを味わい、その状態を受け入れて、納得してはじめて、執着を手放すと楽になるという境地に達するのです。

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