永遠の不満足 生きている満足感を得るために
私たちの心の満足感とは、何を得て、その満足感を満たすのでしょうか。
仕事の達成感、家族の幸せ、自分の趣味に打ち込んでいる時、友人との交流。
人、様々な形で満足感を満たされることでしょう。
そして、この満足感を満たす為には、自分が何を欲しているのか、そのことを理解していなくてはならないでしょう。
そうでなければ、心の満足感を満たすために、自分が何をすればいいのか。
分からないのではないでしょうか。
実際に自分が何を求めているのか、今ひとつ分からない。
一見、満ち足りた生活をしているようではあるが、満足感を得ることは出来ない。
いつも、心が不満、不満足のような感覚、何か虚しい。
仕事、家族、友人、趣味もあるが、何か満足感を得にくい。
自分が満足感を得るために、何をすればいいのだろう。
このような、「永遠の不満足」とも言うべき、悩みで悩んでおられる方もおられるでしょう。
永遠の不満足は、何をどう行動しても、達成しても、満足感を得られない状態です。
この「永遠の不満足」に対する解決策の1つは、妥協です。
自分はこれでいいのだ、十分満足を味わえている、何も足りていない。
永遠の不満足の悩みを抱く方は、自分の心、脳が満足感を得にくい状態になっています。
したがって、客観的に考えて、不満足な点がさほどないのであれば、「これで十分」と自分が自分に言い聞かせ続け、満足とは何かを理解、そして満足感を体感していくしかないのではと考えます。
人によっては、他者との比較により、「あなたは満たされている」とアドバイスされる方もおられるでしょうが、私は他者比較による自己確認には危うさが伴うと考えていますで、他者との比較による、満足感を感じる方法論はお勧めしません。
さて、では、何が問題で、永遠の不満足とも言うべき、心理状態に陥るのでしょうか。
その原因について、考えてみたいと思います。
1 子供時より承認不足 満足感との折り合いが分からない
2 依存 空虚さに満ちた心の問題
3 求めていた理想と現実との相違
4 子供時与えられ過ぎた 甘やかされた子供の心理状態の継続
5 現代社会との在り様 刺激を求め続ける消費と欲望の心理
1 子供時より承認不足 満足感との折り合いが分からない
子供にとって、親(養育者)からの承認は、栄養源、パワーの源のような感があり、また、承認されることにより、子供は自信をつけ、自己の価値を感じることが出来ます。
心の満足感を考える際、承認、自信、自己価値等はセットになっているような気がします。
すなわち、これらの感覚は、自分はOKであるという、感覚的な充足感、言い換えれば、自分はOKの感覚だけでも、満足感をもたらすからです。
何かをしたから満足感を得るのではなく、親(養育者)より生きているだけで承認され、自己価値の認識、満足感の基盤のようなものが、構築されているのです。
そのうえで、さらに目標を定めて、自分が求めている、欲している目標達成のための行動から、さらに満足感を体感するのです。
しかし、子供時より承認不足の状態が続くと、心は常に枯渇しており、成長しても、その枯渇した心の状態では、自分に対する自己価値の基盤が弱く、何か常に欠けているような、心理的欠如感覚をもたらすのではないでしょうか。
この、心理的欠如感覚の為、何をして、何を得ても、何か不十分、欠けている感覚があり、満足感を得る、味わうことが難しい心理構造になっていくのかもしれません。
結局は、子供時から続く、承認不足による自己価値の欠落、それに伴う、充足感を得られなかった心理状態が続き、何をやっても、満足出来ない。
どのような状況、状態でも満足感を得られない。
満足とは何か分からない心理状態となり、本当は折り合いつけ納得すべきところが、思考では分かっても、感覚では分からない、永遠の不満足の状態へと化していく可能性があります。
大切なことは、先にも書きましたが、「満足感に対する折り合い」を学び、脳、感覚に叩き込むことです。
他人は言うかもしれません。
「あなたは、贅沢過ぎる」と。
しかし、永遠の不満足の心理に置かれた状態では、その言葉の意味も感覚的には伝わってこないのです。
2 依存 空虚さに満ちた心
子供時、承認されることの大切さを前述しました。
そして、子供時承認不足だけではなく、常に淋しさ、虚しさを感じ続ける状態に置かれた子供はどのような心理の成人となるでしょうか。
おそらく、心にぽっかり穴があいている。
空虚感で満ちた感覚を強く持つ、成人へと成長するのではないでしょうか。
自己価値も低く、認めて欲しい症候群が高いと思われます。
この認めて欲しい症候群は、例えば、恋愛依存に発展する可能性も高く、常に大切と思われる誰かにしがみついていたい、自分だけを見ていて欲しい、そして、見捨てないで欲しい。
彼(彼女)の存在によって、自己を満たすことが出来る、依存となるのです。
しかし、依存からの満足は他者よりもたらされるもの、見捨てられると終わりです。
そのため、見捨てられないための不安先行の心理状態となり、関係性より満足感を得ることが不安優位のため難しくなります。
不安先行による、永遠の不満足となるのです。
心の空虚感を満たすため、しがみつく相手に執着する恋愛関係では、求めすぎ、「もっと、もっと」とも言うべき、不満足状態が続くことにつながり、この場合、自分をみつめなおす、なぜ依存するのか等考える、自己の再構築が必要となるでしょう。
3 求めていた理想と現実との相違
人によっては、自己の持つ理想を強く求め、一直線に努力、エネルギーを注ぎ続ける人もおられます。
その理想とは、社会的ステータスを手に入れる、理想の職業に就く、社会変革を志す等様々でしょう。
しかし、あまりにも、とてつもない大きな理想は、手に入れること、現実化することが難しく、生涯を費やしても現実化出来ない時もあるでしょう。
そして、大きな自己の理想にこだわり続ける人は、常に理想の現実化のみ追い求め、それ以外見ようとしない傾向かあります。これは、視野狭窄でしょう。
したがって、視野狭窄に陥った、大きな理想を追い続ける方は、今の自分の置かれた状況、状態を客観的に判断することが難しく、理想が現実化しない不満足感が優先し、常に不満足、永遠の不満足となるのです。
理想を持つことは生きる意味、意義へとつながり大切です。
しかし、様々な事情により、現実化出来ない理想があることも受け入れ、客観的に自分の状況、状態を観察。
そして、本当な自分は不満足な状態で生きているのか等、生き方と在り方の再検討も必要でしょう。
4 子供時与えられ過ぎた 甘やかされた子供の心理状態の継続
子供時甘やかされ、親から欲するものは何でも与えられ続けた子供は、成長すると、どのような心理状態になるでしょうか。
基本的には、子供時と同じ心理状態と考えられます。
すなわち、欲しいものは与えて欲しい。
我慢する耐性力を培うことが出来ず、与えられないと、我慢出来ず、永遠の不満足者となるでしょう。
しかし、同時にその方が、内省力が高く自己観察力の強い方ならば、別の意で、永遠の不満足を味わい続けるかもしれません。
それは、その方が、親から与えられているだけの存在であることを自己認識し、自分は何もしてない、自分は何も出来ない無力感を持っている場合です。
それでも、その方は生きるために、与えられ続けることを望まざるをえないでしょうが、とれだけ与えられても、それは、自分の力で得たものではなく、自己効力感を培えず、ただただ、与えられ続ける無力感に捕らわれた人生。
この無力感より、どけだけ物質、お金に囲まれても、永遠の不満足を感じ続けられのではないでしょうか。
永遠の不満足からの脱却のためには、自分の力で得る、この体験をすることではないでしょうか。
5 現代社会との在り様 刺激を求め続ける消費と欲望の心理
私たちを取り囲む現代社会は、ネット、IT、AI搭載活用のゲーム等に溢れ、それらの技術は日々進歩しています。
これらの技術進歩、革新を推し進めているのは、間違いなく、そこからの利を得る企業です。
そして、私たちは、企業が得るためにつくられた、刺激に日々浸り、楽しみ、満足感を得る時代に生きているのではないでしょうか。
ネットやIT、AI搭載のゲームは、強い刺激を私たちにもたらします。
しかし、刺激とは危ういもので、私たちは与えられた同じ刺激には、飽きてしまう傾向が強いのです。
その為、常に新しい刺激を欲します。
もちろん、企業はそこを見逃さず、新しい商品を発売、消費者心理をかきたてることでしょう。
そして、私たちは新しい刺激を購入。
でも、その刺激に飽きるのは時間の問題。
もっと、もっと、新しい刺激を・・・。
刺激を求め続けると、永遠の不満足に陥る場合もあり、かつ、ネットゲーム依存のように、脳機能の問題が生じることもあります。
刺激を求める人生が悪い等、批判する気はありません。
しかし、与えられた刺激だけを楽しみ、その他は眼中になし。
私たちは生涯において、自然に触れたり、人間関係から暖かさ知ったり、人生を考えたりする時間も沢山必要なのではないでしょうか。
企業の利のための刺激を促す戦略にのみこまれることなく、人としての何かを考える尊い時間等も、大切にしたいものだと私は考えます。
刺激を求め続けることは、永遠の不満足の問題とも直結。
不満足解消の為に、企業の利に貢献。
そして、刺激を満たし、一端は満足感を得る。
でも、本当に自分は何を、そこから得ているのか。
テクノロジーが進化しすぎた今、そのようなことは、考えるに値しない時代に入っているのでしょうか。