難病者の孤独と孤立の問題
難病者(指定難病者)とは社会的に孤立している存在だと思います。
その原因としては、難病に対する社会的認知の低いこと、その為、難病を患っている人の声が、社会に届きにくいことが考えられます。
でも、さらなるその原因は、難病の種類が300以上あり、かつ、1つ1つの難病を患っている患者数数が、1万人にも満たないことから、難病の種類は多いけれど、難病を患っている患者数(1つの難病に対する患者数が少ない)は、難病以外の他の疾患(病名)に比べて少なすぎるのです。
難病という言葉はありますが、具体的な難病疾患名、及び、その苦しみと辛さは、1つの難病に対する患者数の絶対的な少なさから、社会から注目されない、社会から忘れられかけているような側面もあり、社会からの孤立を与儀なくされている面があると思います。
簡潔に書くと、難病(指定難病)とは、難病の種類は300を超え、種類は多いけれど、その1つ1つの難病の患者数は、一定の基準数を満たしておらず、少数者であり、かつ、難病の種類に共通性がなく、また、1つ1つの難病を患っている方が、全国に点々として存在している為、同じ難病者同士でもつがることはなく、社会からの存在認識力は弱く、孤立しているのです。
したがって、社会の注目を浴びることは滅多にない。
一昨年より公共放送(NHK、Eテレ)は、発達障害、LGBT、ひきこもり、これらの悩みを抱える方々については、盛んに放映されていました。
これは、悩まれている方の数も多く、また、その悩みに共通性も多々あることから、放送し易いのでしょう。
それは、言葉を変えると、視聴者の共感を得やすい(分かりやすい)となります。
私は指定難病者、下垂体性ADH分泌異常症です。(昨年5月 大阪市内の病院にて診断されました)。
この下垂体性ADH分泌異常症の患者数は、全国推定、5000名程?
まったくの少数派です。
但し、私は現在、要観察中です。
また、300を超える難病者数の数は、合算すると100万人を超え、ひきこもりの方の数を上回るかもしれません。
しかし、難病者には、光は当たらず、社会の理解も低く、相談する先も少なく、社会的孤立を招いていることは現実です。
難病者とは孤独な存在なのです。
そして、日々、心理的にも追い込まれているのではないでしょうか?
このことは、私が難病者として経験しています。
いかに難病者全体数が100万を超えていると書いても、これは、300以上ある難病を患っている方の合算数値。
かつ、難病そのものは、その症状、苦しみ等、様々であり、自分の患っている難病については体験上精通していても、他の難病については、知る機会も少なく、分からないと、難病者全体が、そのように思われているのではないでしょうか。
(難病者同士でも疾患名が違うと、分かり合えない現象も生じます)。
したがって、公共放送も難病の特集を組もうにも、ある難病については放映して、他の難病を放映しないとなると、放映されなかった難病者等より差別的な扱いと、クレームを受けるリスクもあり、そもそも、難病の種類が多すぎ、番組企画、制作に躊躇されているのではないでしようか。
ここで、もう一度、書きます。
ひきこもりで悩まれている方の数は100万、難病の患者数は、その数を上回る程、存在しているかもしれない。
ただ、疾患の種類が多く、難病者自身が全国各地に点々と暮らしており、同じ苦しみを感じられるであろう難病者でも知り合う機会は少なく(自助会等も少なく)、社会の認知も低く、社会から理解れにくい。それゆえに孤立化している。
これが、難病者の孤独の実態ではないでしょうか?
難病によっては、身体症状の悪化も進み、心理面も追い込まれ、日常生活のままならない方もおられたり、動けるには動けるけど、すぐに疲れ寝込んでしまう(ひきこもっているのではなく、病気静養中)、元気に活動しているようで、実は100種以上の薬を飲んでいる等、様々な症状、苦しみの中、懸命に生活されています。
さて、現在難病者を取り巻く救済環境としましては、難病者は障害福祉の一部を活用出来るだけであり、行政の救済は遅れています。
難病者、独自の救済制度の確立は必要ではないでしょうか?
と、書いても、難病の種類は300以上、1つの難病を患っている患者数は、絶対的小数。
苦しみ、悩み、症状も多岐にわたる、超少数派の難病者であるがゆえに、一貫した行政による、救済制度の確立は難しいのでしょうか。
しかし、真剣に救済を考える必要のある問題だと思います。