所属意識が低く 集団行動が苦手

集団行動が苦手

私は子供時、小学校に通うことが嫌でした。
中学校、高校でも同じです。

小学校、中学校、高校と共通しているのは、集団行動を求められることです。
例えば体育の時間の球技。
遠足、修学旅行、体育祭、文化祭。

くだらないことを、やらされている気持ちを、いつも持っていました。
「こんなことをして何になるのだろう、バカバカしい」と思いながら参加をしていました。

しかし振り返ると、この心理の背景には、著しい私のコミュニケーション能力の低さが大きく影響していたように思います。

コミュニケーション、会話、話すことをクラスメイトと行わないと、友達が出来ません。
私は話さない子供だったので、友達をつくることが出来ず、大概1人で校内での時間を過ごしていました。

友達が出来ず1人で時の経過を待つのは、孤独であったと思います。
しかし、ひきこもることは出来ず、心を閉ざしながらクラスメイトという集団の中にいることを耐えていました(心理的ひきこもり)。

私の子供時のコミュニケーションの低さは、親とのコミュニケーションの無さと比例しています。
親とのコミュニケーションの時間が少なくなればなるほど、学校においても、コミュニケーションがとれず、孤独へと追い込まれたのです。

小、中、高と振り返ると、一番嫌いな時間は体育祭でした。

体育祭。

各クラスが団に分かれて応援し合うのですが、「がんばれ、がんばれ、みどり」とか、応援練習参加や当日応援を行いますが、私には、この、どうでもいい体育祭で応援までする感覚が分かりませんでした。
今でも分かりません。

集団行動が苦手と書いていますが、正確に書くと、強制的につくられた集団に放り込まれて、そこで適応することが苦手なのです。

非自発的集団には入りたくない。

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所属意識の低さ

さて、集団行動が苦手な私は当然、集団の一員であるという感覚が希薄でした。
そして、この感覚は成人以降もあり、所属意識、帰属意識の低さにもつながります。

何らかの集団に所属(例えば会社)はしているが、その所属の一員であるという感覚は希薄なのです。

子供時からの成長における連鎖でしょう。

私は基本的に私達と称して、私を語ることはありません。
「私は」です。

それでも、人とのつながりは求めます。
また、ずっと1人でいると孤独を感じ、緩やかな居場所のようなものは求めます。
また、自発的な目標のあるグループ活動には参加をしたいと思います(本当は新型コロナ禍以前、自発的グループに参加する予定でした、しかし、コロナ禍で活動はずっとストップ)。

人間とは社会性の動物。
したがって、何らかのグループに所属したいという、社会性の欲求、つながりの欲求は誰にでもあると考えます。

私はその欲求度は低く、基本的には自ら目標、理念を設定しないグループへの参加は望みません(会社時、トップダウン型の企業に対する所属意識は低く、お金を稼ぐための手段として所属していただけです)。

また私は社交性は低く、社会性(規範意識の高さ)が高い。
この感覚も、仲間意識、所属意識の低くさにつながっているのでしょう。

社交性が低いのは、親が厳し過ぎ、性格が内向的になったからだと思います。
社会性が高いのは、親が厳し過ぎ、それを受け継いだ、自分自身の意識から、規範意識を強めたように感じます。

今の時代は昔と違い、働き方も様々。
必ずしも、組織に属して窮屈を味わう必要もなく、力や才があるのであれば、フリーでも活動出来ます。

所属意識、集団行動が苦手であるからといって、才あれば、一城の主、悩むことは少ないでしょう

集団で活動をすることを好む人もいれば、1人で活動することを好む人もいていいのです。
これらは、個性です。
何も問題はないのです。

但し、1人での活動を好むことは問題ありませんが、孤独の病には注意してください。

集団意識が希薄だといっても、人は誰かとつながっていないと生き辛い(寂しい)ものだと、私の経験値より理解、実際にそのように考えます。

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