自己肯定感どうでもいい 開き直りの心理

10年以上前からでしょうか?
カウンセリングにおいて、自己肯定感が低い悩みで、カウンセリングを受けに来られる方が増えてきました。

それ以前は、「自信がない」、この言葉の悩み相談が多かったのですが・・・。
自己肯定感、10年以上前は、今のように頻繁に使われる言葉ではなかったように記憶しています。

さて、私はいまひとつ感覚的にではありますが、自己肯定感とは何か、分かるようで分からないところがあります。

おそらく、私自身が、この言葉、自己肯定感に馴染みないのだと思います。

結論から書くと、私自身が、私の人生において、自己肯定感が高かろうが、低かろうが、問題にしていないのでしょう。

確かに、他者からの評価を頂きたい、認められたいという承認欲求は私にもあります。
(それは、自分1人で自分を肯定しても不確かなものであり、確実に自分を肯定するには、他者からの承認が必要であるという心理的根拠です)。

おそらく、今多くの方が悩まれている自己肯定感とは、何かが出来る自分、何かが他者より優れている自分、頑張っている自分を認めて欲しいという、承認欲求に対する悩みではないでしょうか?

(さて、自己肯定感と並ぶ、もしくは対をなす悩みとして、自己否定の悩みがあります。しかし、この2つの言葉を並べると、一目瞭然なのですが、自己肯定感は「感」が付き、自己否定は「感」が付いていないのです。カウンセリングにおいても、自己否定感が強いという悩みの言葉を使われる、ご相談者様には、あまりお会いしたことがないように思います。
しかし、当然ではありますが、強い自己否定は、自己肯定感を築くことに対し、根源的問題となるでしょうが、今回は自己肯定感のみに焦点を合わせて、書かせて頂きます)。

さて、私にも、他者からの承認欲求はあります。
でも、同時に、どうでもいいと思っています。

それは、他者からの評価とは他者が勝手に行うものであり、私に制御、コントロール出来るものではなく、他者評価を得ることに専念すると、他者評価を得ることに振り回されてしまうのです。
結局、自分軸を失う。
私は私で在りたい。
そのために他者評価はあれば嬉しいけど、特段必要ではありません。

何かに振り回されることなく、心静かに穏やかに暮らしたいと思っています。
年なのでしょうかねぇ。

でも、何かが出来る自分、他者より優れている自分、頑張っている自分を考えると、それが出来なくなることもあります。
自然に加齢と共にとか・・・。

すると、それが出来なくなった自分は、自己肯定感という感覚を失ってしまうのでしょうか?
自己肯定感とは、それ程度のものなのでしょうか?
その程度のものであれば、自己肯定感で悩む必要もないのではないでしょうか?

(いいえ、私は理解しています。自己肯定感は成育歴とともに培われる。

子供時の親子関係、どれだけ愛され、認められたか、または、批判、罵倒され続けたか。
友人関係にも影響されるでしょう。
いじめはなかったか、仲間外れはなかったか。楽しく友人と分け合ったか。
学校での成績は?頑張っても成績が上がらない、自己嫌悪。
青年期、大学等での青春時代を謳歌したか。ボッチでしたか。
孤独による疎外感。
社会人になってからの、人間関係も影響します。
その他、遺伝による気質、人生における様々なシーンでの成功体験、承認体験、比較評価等、自己肯定感に関連する言葉、内容をあげるときりがないのです)。

そして、これらは、劣等感、コンプレックス、自己否定とも強く結びつくのです。

自己肯定感が低いとは、その根源である、劣等感、コンプレックス、自己否定、自信がない等の言葉が名称変更したものなのでしょうか?

それとも、劣等感、コンプレックス、自己否定、自信がないゆえに、他者承認を強く求め、それが得られていないと思われているために、自己肯定感の問題で悩むのでしょうか。

さて、私は成功体験もありますが、それを上回る程、挫折体験も多い人生を過ごしてきました。
とくに、ここ数年は惨敗した感もあります。

でも、すべては過去のことなのです。

人は様々な体験、経験より自己肯定感で悩まれ続けるのかもしれませんが、先に書いたように、承認欲求等、他者から得ることを考慮しても、得られることもあれば、得られないこともあり、全ては他者次第、私はそれよりも、他者に振り回されない自分創りの方が大切のように思います。

そして、私がなぜ、自己肯定感を自分自身の問題にしていないか?
それは、自己肯定感を自信、自己信頼感と言葉を変えても同じなのですが。

ある意味、私とは、落ちるところまで落ちた。
その種の人です。

そうなると、次は這い上がるしかないのです。

這い上がるのに承認欲求云々等、考る必要もありません。

ただ、開き直り、自分は自分だと思い、心ひねることなく、前に向かうしかないのです。

開き直りの心理と、考えてもいいかもしれません。

必要以上に過去にこだわらず、こだわるのであれば、その過去から何を学んだかを考え、これからの自分の人生に活かす。(まだ、たまに、悲観的になることもありますが。心の傷は癒えていない。)。

開き直ること。

劣等感、失敗体験、自己肯定感等、どうでもいいから放棄。

そうです。
私は開き直ろうと生きているから、自己肯定感という言葉はピンとこないのでしょう。

私は自分の出来る範囲内でいいから、自分のする事に、最善を尽くしたいと思っています。
仕事と書き、「事に仕える」と読み換えることが出来ます。
(この事とは、有給の仕事を示すだけではありません。ボランティア、子育て、学び、遊ぶ、すべての事を示しているのです)。

日々、自分なりに精一杯最善を尽くせば、それだけで良いのではないのではないでしょうか。
そして、最善を尽くしたのであれば、それ以上の事は出来ないはずです。

自分は自分の人生を、最善を尽くして生きる。

それを他者から承認して頂ければ嬉しく思います。
でも、承認してもらえなくても、それは他者の判断、私には関係ありません。

さて、最後に、何かが出来る自分、他者より優れている自分、頑張っている自分等を、他者より認めてらう、他者評価に自己の在り方を置いていると、年齢と共に以前は出来ていたことが、出来なくなる事実にぶつかります。

加齢とは無情なものなのです。

したがって、大切なこと。

自分という人間。
その存在を無条件に認めてもらえる、人々との関係性を築くことが、私は人生において、一番重要なことだと思っています。

自己肯定感、この言葉には、比較、競争が背景にあると感じる時があります。
優秀である自分か否か。私はAさんより優れているか否か等。自分は周囲より否定されていないか否か。
私の考え過ぎかもしれませんが・・・。

人生を豊かに過ごすためには、最善を尽くして生きている自分を認め、いろいろなことを分かちあえる、人間関係(家族、友人、仲間)があれば、それだけで十分ではないでしょうか?

自分は自分であり、かつ、自分は他者を大切にし、他者にも大切にされる。
孤独を避け、交流の暖かさに触れ生きる。

また、時間に余裕ある時は、自分の好きなことをして心を満たす。
これも重要でしょう。

自己の存在を無条件に認めてもらえば、もらう程、人は生きる希望、勇気、意味を自己の中に見出し、強く生きることが出来ると、私は考えています。

それは、私はOK、であるから。
他者評価にはこだわらず、開き直る。
開き直りの心理。

自己肯定感。

激しい競争社会中心の現代の為、疲弊する社会の中生き続ける為、孤独が蔓延している社会である為、人は自己存在の証明の如く、条件付きのOKである、自己肯定感を強く求めるのかもしれませんが、実のところはどうでも良く(競争社会を生き抜き続けている方には申し訳ない書き方ですが、いずれは引退されます)、自己の存在を無条件に認めてもらう方が、生きるうえでは遥かに大切であると書かせて頂きました。

そして、その為には、今、仕えている事に最善を尽くす。
最善を尽くして生きる。

その自分を自分が認めてあげること。

自分はOK。

無条件の自己存在のOK。

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