すべてのことには意味がある

私たちに起こる出来事すべてのことには意味がある。
よく聞く言葉ですよね。
皆さんはどう思いますか?

例えばお腹が空いて食事に行こうと外出しました。
すると、途中で財布を忘れていたことに気がつきました。
どうしようかと思案してズボンのポケットに手を入れたとたん、1000円札が出てきたのです。(以前ポケットに入れて出すのを忘れていただけですが)。
こんな時、「この1000円で食事をしろ」という天の声だと、大げさに感じたり、嬉しい気持ちになります。

次の例です。
職場に好きな女性がいます。
でも、なかなか告白出来ません。
そんな時、彼はたくさんの書類を抱えており、偶然にも彼女と職場の廊下ですれ違いました。
彼は緊張していたのでしょうか、持っていた書類を落としてしまいました。彼女はとっさに拾い上げ、そこからコミュニケ-ションが始まり、恋愛へと進み、1年後結婚します。
彼からするとたくさんの書類を抱えていなければ、廊下ですれ違っても何も起こらなかったはずです。
したがって、多くの書類を抱えていたこと、書類を落とした出来事が、彼女と結婚するための意味であったのです。

私たちはこのように自分にとってラッキ-、幸運な出来事については、その起こった出来事の意味を感じたり、過去を振り返りその意味を探すことを案外しています。

それは、起こった出来事が嬉しい出来事であり、その意味探しも楽しいからだと思います。

そして、ここで重要なことは出来事に対する意味探しは体験している本人が、個人的な解釈に基づいてその意味を探してしているということです。

同じ体験をしても、その意味を見つけることが出来る人と、出来ない人がいます。それは、意味探しには個人的な解釈が大きく影響するからです。

さて、ここまでは何か良いことが起こったことに対する意味探しについて書いてきました。

次は私たちの感情反応と意味について考えたいと思います。

私は私たちに起こることすべてに意味がある、すべてとは言いませんが、心理カウンセラ-の立場から考えますと、日常生活において私たちの感情が動く出来事には何らかの意味があると思っています。

感情が動くとは何を意味しているのでしょうか。
それは私たちが何かに反応しているのです。それは起こった出来事について反応しているです。

怒り、悲しみ、喜び、楽しい等様々な感情がありますが、感情が動いている時は何かに反応してことは確かです。

楽しみ、喜びのプラスの感情は心や体が楽しくて反応しており、体験している本人にもなぜ、自分が楽しいのか、喜んでいるのか、理由は分かっていると思います。起こった出来事、または体験している最中に対する感情反応はストレ-トで明快です。

しかし、怒り、悲しみ、失望、嫉妬等マイナスの感情が動いた時、その体験と感情反応が複雑に入り組んでいる時が多々あります。

なぜ、複雑に入り組むかと言いますと、感情が生じるには、感情が生じるもととなる思考が存在していることが多々あるからです。

この思考が大変なやっかいものです。

それは、自分に起こった出来事を素直に認めることはなく、自己正当化、歪曲、合理化等様々な自己防衛を図ったり、自分の視野の狭い信念、物の見方ですべてを捉え解釈したりと、複雑な思考のもと出来事に対する解釈が関係してきて、なぜその感情を抱くのか、その理解が体験している本人にとっても難しくなります。

例えば、素直に何かを言った方が楽な時でも、自分の高すぎるプライドの問題から素直な表現が出来ず、出来ない原因を相手のせいにして怒ったりと・・・。

この場合、怒る原因は自分の高すぎるプライドです。でも、それを認めたくなく、怒った原因を相手に転嫁しているのです。
このような時こそ、感じた感情、怒ったことに対する意味探しをするのです。

そこに自己成長を妨げる思考を発見して、修正をすることが出来れば、その起こった出来事に対して抱いた感情の意味が分かり、次からは自分に素直な感情表現が出来るかもしれません。

また、次のような場合もあります。
何回も転職を繰り返している男性がいます。彼はどこに行っても人間関係でつまづきます。悲しみと失望を感じています。
自分はなぜ人間関係を築くのが苦手なのか。この時こそ、きちんと自己分析を行い、人間関係に対する思考の修正を図り、社会的スキルを獲得するチャンスなのです。

人生に起こることすべてに意味があるとは言いませんが、感情が動いた時は何かそこにあります。それは、感情を抱いた本人を成長させるための意味があるのかもしれません。

特にマイナスの感情抱く際には、感情を抱いた本人の問題が絡んでいることが多いからです。

そして、その感情が動いた意味探しも体験者がその意味を探り、その意味が分かるか分からないかによって、自己成長が図れるか、図れないかの分岐点なのです。

さて、ここまでは心理カウンセラ-として感情が動いた出来事については意味があると書いてきました。

では、次は人格・波動の概念から自分の体験エピソ-ドを書きたいと思います。

先日職場に向かう途中でのJR・新快速電車の中での話しです。
住所地から兵庫県に向かうのですが、途中の大阪駅でたくさんの乗客が降りられました。
私は席(2シ-ト)に座ることが出来ました。時間帯も8時過ぎで通勤ラッシュの時間帯は過ぎています。
乗車客も少ないので、私は座席の横に自分のカバンをポンと置きました。(置いても他に空いている席があったからです。また、私の横に誰も座って欲しくなかったのです)。

しかし、発車時間を過ぎても電車は動きません。車掌のアナウンスです。「前を走っている電車が故障で当列車は出発を見合わせております」
すると、徐々に車内の乗客が増えてきました。私はしょうがないと思い、座席横に置いていたカバンを膝の上に置きました。

しばらくして、おばさんが乗ってきました。そして、何と後ろのおばさんと話しをしだしたのです。どうやら同じ会社に勤めているようです。
しかし、そのおばさんの声が耳に響く不快な声なのです。また、話している内容も同じ職場の人の悪口ばかり。後ろのおばさんと話しをしているので声もうるさいし。マナ-違反は明白です。

やがて、電車が動き出しました。おばさんの不快な話しは続いています。いい加減私の耳は痛くなってきて、気分も悪くなったので次の尼崎駅に着くと同時に前の車両に異動しました。
車内は混んでおり座ることは出来ませんでした。
しかし、なぜ、あんなやかましいおばさんが自分の横に来たのだろうか。不快な記憶を振り返り出しました。
分かりました。おそらく、私がカバンを膝の上に置きなおしたタイミングで来たのです。

そもそもは、私が大阪駅で車内が空いていると、即自分のカバンを隣の席に置いたのが原因でした。
それも、気持ちとしては誰も自分の横に来て欲しくなかったのですから。

これは格の低い行いなのです。
そして、私が格の低い行いをしたために、格の低い人が来たのです。

人が人を引き寄せることは多々あります。
そして、それはその格に見合った人が訪れてきます。

常に格を上げておきなさいと、天からの啓示だったのでしょう。
このことを悟った時、電車は次の芦屋駅に着きました。私は運良く座ることが出来ました。

学ぶことを学んだからでしょう。

さて、皆さんは私のこの話しについて何を思いますか。

「考え過ぎ」「こじつけ」等のご意見もあると思います。
それはそれでいいのです。

最初に書きました。
出来事の意味は体験している本人が解釈を行い、意味づけると。

同じ出来事を体験しても何も学べない人と、学ぶことの出来る差は、天からの啓示を受取れるか、受取ることが出来ないかの差につながるかもしれません。

自分に不利なことが起こった時、自分に非がなかったかどうか、謙虚に振り返ることが出来るかどうか。大切なことです。

そして、そこに意味があります。

その意味が分かった時、人生の豊かさに通じるのです。

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