自分が生きた証 創作物
人は自分の生きてきた証、生きていた証を残し、あの世に旅立ちたいのであろうか。
それとも、1回の人生、今生、悔いがなければそれでいい、自分の生きてきた証、自分が存在していたことを証明すること等、どうでもいいと思われるのでしょうか。
このことについては、人様々、お考えがあると思います。
私の父と母を比較すると、2人はこの点に関しては、まったく違っていました。
父は会社を定年する頃まで、ギターを習い、ギターを演奏することを趣味としていました。
しかし、会社定年後より、ギターをやめて、絵を習い始めました。
おそらく父は、絵を自分が生きていた証として残したかったのではと推察しています。
自分の分身として、創作物を残したかった。
作品(芸術に関わらず)を創ることをされている方ならご理解頂けると思うのですが、自分が創った作品に対しては、自分の分身、大袈裟に書くと、魂を吹き込む、「命」のような感覚を抱かれることもあるのではないでしょうか。
従って、父は絵を描くことにより、自分の創作物、分身を創り、自分の生きた証としたかったのかな?
と私は思っています。
父はギターを若い頃から習っており、キャリアも40年以上。
それをやめ、絵を描くことに専念しだしたのは・・・。
それは、私たちに子供、親族に、自分の描いた絵を残し、自分がこの世からいなくなった後も、自分を思い出して欲しいという気持ちが強かったのではないでしょうか。
それに対して母は、70代より断捨離を意識しはじめ、自分の生きた証等、どうでもいいようでした。
当然、父母には子供がいるので、母からすれば、自分が生んだ子供が、自分の生きた証と考えていたのかもしれません。
さて、自分が生きた証として創作物を通じて残すも、残さないも、その人の考え方次第。
自由です。
でも、私が、「自分が生きた証を、創作物を通して残したいと思う気持ち」から推察することは。
それは、「生への執着の強さ」の表れではないかということです。
人によっては、何かを創るけど、それは、自分が生きた証を残すための観点はなく、ただ、作りたいから作っている、楽しみ、趣味でされている方も多々おられることと思います。
それに対して、自分が生きた証を残したいと思い創られている方は、自分がこの世からいなくなった後も、自分の存在を残したいという心理が強く働いていると思います。
自分は生きている、創作物を通して永遠に生きるのだという、生への執着ではないでしょうか。
または、自分がこの世に存在していたことを忘れないで欲しいという思いもあるでしょう。
生への執着が強いからといって、これも、問題ではありません。
結果としては、楽しんで作品を創られれば、それでいいのです。
さて、自分が生きた証ですが、自分が生きた証というものは、自分を思い出してくれる他者が存在して、成りえることです。
特段、自分が生きた証を残そうと思わなくても、ふと、誰かが、あの人から、あんな親切を受けたなぁとか、あの人を思い出すと心が温まる等、その人が思い出されることによっても、自分が生きた証として、立派に残ります。
この為には、生前いかに生きてきたか、他者と関わってきたか、社会と関わってきたか、このことが大きく影響します。
親切、寛容、奉仕等の行為は、その恩を受けた人には、その人にとっては永遠の、心温まる思いとして、何かの都度、その人を思い出すことにもつながり、自然と自分が生きた証を残すことにつながるのではないでしょうか。
「生き方と在り方」を通して、思い出の人として、他者の記憶に生き続けることも可能なのです。
さて、父の絵ですが、沢山描かれた絵の大半は処分しましたが、私がつがいで飼っていた文鳥の絵を、額に入れて部屋に飾っています。
また、母については、15年程前、母自身が創った、白い馬の刺繍をゴミ箱に捨てているのを私が見つけ、もったいなく感じた私は、ゴミ箱から刺繍を拾い、額に入れて部屋に飾っています。
父母、2人の創作物は必然と、私の部屋の中で、並んで飾られています。