人間関係における不適応
今を生きている私たち。
私たちは人間関係のなかで生活をして生きています。
そして、今ある人間関係に適応出来ないと自分の居場所の問題が生じて、生き辛さを感じてしまいます。
人間関係に不適応ということは、心理的にその人間関係のなかに入り込めていないことになり、周囲の人と一緒にいても、自分が浮いた感じや、存在することに申し訳のなさを感じたり、この場から早く立ち去りたいと思ってしまうのです。
しかしなぜ人間関係に適応出来ないのでしょうか。
今回は適応することに一生懸命であるが結果的に適応出来ない問題、過剰適応と過剰反省について書きたいと思います。
1 過剰適応
過剰適応とはその場の人間関係に適応しようと一生懸命になることです。
相手から悪く思われないため、良い評価を得たい等の思いから、必要以上に相手に合わせたり、自分を抑えたり、さらには周囲を喜ばせようと気を遣い過ぎたり話し過ぎたり、その過剰さゆえに、余計な気を遣いすぎ疲れやストレスを抱え込んでしまいます。
あまりにも他者に合わせ過ぎると、自分が何を思い、何を感じているか分からなくなり、自分を失ってしまいます。
2 過剰反省
自分が人との関係で相手に悪く思われていないか、何か不必要なことを言って相手の気持ちを悪くしなかったか等、1人になると気になりだし反省し過ぎます。
これも過剰適応と同じく常に相手に悪く思われていない等の評価を気にし過ぎています。
しかしどれだけ気にしても、反省しても、真実は分かりません。
周囲や相手が自分と居てどう思ったかは、相手に聞く以外確認の方法がないのです。
反省することは大切なことですが、結論の出ないことをグルグルと考えていると、憂鬱感を抱いたり頭痛が生じたり、考え過ぎから神経がおかしくなると思います。
過剰志向も過剰反省も共通していることは、他者評価の問題です。
その場の人間関係に適応するためには他者よりの評価が大切であると思っているのです。
また他者よりの評価がある限り、自分の居場所がそこにあると思っているのです。
確かに他者、周囲から悪い評価を受け続けると、そこに居づらくなり居場所を失ってしまうかもしれません。
問題は過剰に人の評価を気にすることなのです。
しかし、すべての人からすべてにおいて高い評価を得ることは不可能です。
人は好き勝手ないろいろなことを思う生き物なのです。
不可能にチャレンジしないことは、人間関係に適応するうえ大切なことです。
さて、過剰適応も過剰反省も人の評価を気にするあまり、人間関係に生き辛さを感じ不適応な状態となっています。
では過剰志向、過剰反省による不適応からの解放には何が必要なのでしょうか?
それは自分は自分であるという感覚だと思います。
自分が自分であるという感覚を持つことが出来れば、自分の価値は自分で決めるという考え方を持つことが出来ます。
したがって過剰に人からの評価を得る必要がなくなるのです。
また人が自分のことをどう思おうが、人は人、自分は自分であり、深く考え悩むことはなくなります。
「自己の存在は自分が自分であるがゆえに在る」
となるのです。
過剰志向も過剰反省も、自分が周囲に適応するための手段として抱いているものですが、残念ながら2つとも自分を苦しめる根源であり、手放す必要があるのです。
過剰適応、過剰反省は対にもなっており、この2つは人間関係に適応するどころか、自己喪失の苦しみから逆に不適応をもたらすのです。
そして人間関係に苦痛を感じて自らその場から去ってしまい、居場所を失ってしまうことにもなりかねないのです。