充実感の低い日々

大阪市に僻地より戻って1年半。
充実感の低い、少し、うつろな日々が続いています。

なぜか。
それは、私が心理カウンセリングをしていないからです。
心理カウンセラーが、カウンセリングをしてなければ、何の意味、意義、価値もない。
私は自分のことをそう思っているのだと思います。

あなたは何者ですかと問われると、
私は心理カウンセラーと答えるでしょう。

しかし、カウセリングをしていない。
カウンセリングルームはレンタルルームを使えばいいのですが、業務は停止しています。
これは、新型コロナウィルスの影響が大なのですが。
新型コロナウィルス収束後は、復活させます。

充実感の希薄さ 人生の目標に関すること エネルギーの空回り

さて、充実感の低い日々と、タイトルに書きましたが、この充実感は職業アイディンティティだけではなく、人間の本質である、楽しむこと。

私は何が楽しいのか、分からない人間なのです。
特にはしゃいだり、大笑いしたことは、子供時より経験が薄いと思います。

それは、子供時から続く、私が私に対する、自己抑圧の強さからきているのだと思います。

さて、人は楽しみを求めて生きるもの。
刺激を求めて生きるもの。
それが、ストレス解消や、生きがいともなるでしょう。

しかし、私には、これといった、発散する楽しみがない。
刺激を求める感覚も今ひとつ。

したがって、楽しむ変わりに、私は夢、目標を追いかけることを、自己のエネルギーの発揮として、生きてきました。
(これは、37歳時、今から18年前、会社退職後からです)。

熱くなれる何かを追い求める自分。
これが、充実感のある私を形づくっていたのですが、その追いかける何かが、今はないのです。

これは、私にとって生きる目標の喪失です。

そして、同時に、私には激しい、怒りのエネルギーがあります。
まさに、破壊のエネルギーです。
しかし、知性と良識により、その激しい怒りのエネルギーは封印していますが、この激しいエネルギーが、その噴出先を求めており、そのエネルギーが放出されず、自分の中だけで循環しており、封印するのにも疲れてきています。

実は、怒りのエネルギーも、活動のエネルギーとして、過去は昇華させて活用してきたと思うのですが・・・。

さて、なぜ、私の怒りのエネルギーが強いのか、気質かもしれません、また、子供時からずっと抑圧・我慢、ここ数年も思うように活動出来ず、それも、ストレスとなり、怒りの感覚を強く、強く、生じさせているのでしょう。

そして、ここ数年は、傲慢、薄汚い人間とも、関わることも多々あり(大阪市より転居して以降)、それも我慢してきましたが、もう、このへんで、我慢は出来なくなってきている感じです。

私は自分の激しい怒りのエネルギーを感じる時、笑い話のようですが、半分はサイア人かなと感じる時もあります。

充実感の低い日々と、タイトルに書きましたが、来年以降、再度、人生の目標を設定し、怒りのエネルギーを建設的に使い、夢、目標を追いかけ、自分らしく生きる、その人生にしていかければならないでしょう。

これが、私にとっての自己実現であり、チャレンジなのです。
今、現在、充実感の低い、うつろな日々を過ごしている私が、充実感を得、確固たる実体のある私になるために必要なことだと確信しています。

そして、充実感を得るためには、闘わなければならないかもしれません。
何と闘おうとしているのかは分かりません。
しかし、怒りのエネルギーは闘いを求めている。
おそらく、そうだと思います。

その闘いとは、荒っぽい暴力的なことではなく、何か熱く活動をすること。
今は休業中の心理カウンセリセングの仕事を再開することを含め、もう1つ、今まで活動してこなかった内容の仕事(仕事内容未定:有給、無給を問わず)、に力を入れることにあります(直感)。
熱くなれる、2本柱が欲しい。

そして、私の人生予想では、一戦交えた後、その先にある私が、穏やかな人生を手にした私となるはずなのです。

まさに理想の老後 心静かに穏やかに。
ずっと、先の話しでしょうけど。

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