何も成す事が出来ない人生

私たちの資産の大切なものの1つ。
それは、
「最善を尽くして過ごした日々の蓄積、経験も大きな資産」ではないでしょうか。

さて、皆様のなかには、自分の人生を振り返り、また、今を直視した結果、思うこととして、「自分の人生は何も成す事が出来ない人生だ」、と思われることはあるでしょうか。

しかし、よくよく考えると、「何かを成した人生」。
一体それは何を意味しているのでしょうか。

ある人は私に次のように言われました。
「何かを成せる人生をおくれる人は少ないよ」。

しかし、さらに考えるに、私たちは人生において、「何かを成す」必要はあるのでしょうか。

もし、それが、必要であるならば、その根拠は何でしょうか。

そもそも、「何かを成す」とは、何を意味しているのでしょうか。

そして、「何かを成す」ことに、こだわる必要はあるのでしょうか。

人とは皆、様々な人生をおくります。
その、生きる中、様々な役割、責任があり、自分なりに最善を尽くして役割、責任を果たして生きれば、それは「1つの事を成したこと」ではないでしょうか。

「何かを成す」ことよりも、日々、自分なりに最善を尽くして生きることが大切だと思うのです。
(その結果、何かを成すことにつながるのでしょう・・・)。
但し、残念ながら、人の置かれている環境、状況は、人様々。
そこに、他者との比較が入り、自分を卑下してしまい、「自分は何も成していない」と思われるのかもしれませんが、そうではなく、日々、最善を尽くすこと、その経験の蓄積こそが、人生そのものではないでしょうか。

人生とは「何かを成す」という結果論ではなく、いかに日々を過ごしたか、経験論(体験・経験の蓄積と学びの場)であると、考えることも可能なのです。

さて、視点を変えましょう。
もし、自分の人生を振り返って、また未来を悲観され、「何も成すことがない人生」、「何も成すことが出来ない人生」と思われるのでしたら、それは、チャレンジする目標が高すぎるのかもしれません。

あまりにも、高すぎる目標は、自分を惨めにするだけだと思います。

また、人によっては、「こんな人生おくるつもりではなかった」と、吐き捨てるように仰る方もおられることでしょう。

もし、私がその言葉を聞いたならば、次の質問を投げかけるでしょう。

「では、あなたは、どのような人生をおくりたかったのですか?」。

その方は、この質問には、答えられないかもしれません。
なぜなら、人によっては、人生に対するイメージ、進む道に対するイメージを持っておられない方もおられるからです。

ただ、漠然と「人生の成功」とは。
この「成功」という、強いフレーズに凝り固まっているだけかもしれません。

そもそも、人生に対して、成功という名の具体的イメージを持っておられなかったとしたら、
「こんな人生おくるつもりではかった」という言葉は意味をなさず、その中身のない言葉の独走に振り回され、何をどうして良いかも分からず、投げやりな気持ちに陥ってしまうのではないでしょうか。

「何も成す事が出来ない人生」。
でも、もしかすると、この方は、人生の目標にチャレンジした結果。
それが、叶わなかったのかもしれません。

「何も成す事が出来なかった人生」。
以下に、この気持ちに対する私見を2つ書きます。

経済的成功 名声・名誉の獲得を目指すことを目標とする場合

上記のことを、人生の目標設定といたしますと、その成功、獲得に至る道は細く、厳しく、険しく、その達成は困難を極めるでしょう。
しかも、経済的成功や、何らかの事を成し、名声、名誉(高い承認欲の満足)を獲得するには、運も大きく左右します。

どれだけ時間を費やし、努力しても、あまりにもとてつもない大目標ゆえに、途中で挫折、成功への道を急ぐあまり、詐欺にあったりと、時間と財産という資産を無駄に使ってしまうかもしれません。

また経済事情の激変によっては、一旦は成功した経済力獲得も、一瞬で失い、虚しさを感じられることもあるでしょう。

様々な人生の目標を掲げることは、生きる力にもなります。
しかし、人生において最終的な結果を求め過ぎ、それが叶わない時は、凄まじい挫折感を感じられるかもしれません。

人生の目標設定、事を成す結果を、経済的成功、名声・名誉の獲得と設定しない方が、私は有意義な人生を送れる気がします。

そもそも、何のために、経済的成功、名声・名誉の獲得を、人生の目標とされるのでしょうか。
本当は、経済的成功、名声・名誉の獲得とは、やるべき事、理想の追求等、その事に対して、最善を尽くした後の結果、評価としてついてくるものなのです。

野望、野心、渇望する心を満たすことを動機として、目標設定することは、どこかで、人としての道を踏み外すことに、つながりかねません。

例えば、経済的成功を収めたい。
金持ちになりたい。
さて、どのような手段を行使されますか?

もし人生を問うならば 何かを成すのではなく 何にチャレンジしたのか

「何も成すことが出来なかった人生」。

私はそのような人生はないと思っています。

それは、何かを成すということは、何かにチャレンジした結果であるからです。

そして、「何かを成した」、これは、何かにチャレンジした後の評価なのです。
評価には、自己評価、他者評価があると思います。

そして、強く他者評価を求めすぎると、他者より評価されていない自分に対して、「何も成すことが出来なかった人生」と、自己の人生及び、自己を評価してしまうのでしょう。

評価とは、何かにチャレンジした後についてくるもの。
大切なことは、チャレンジした結果を、自分がいかに評価するかです。
例え、それが他者評価を伴わなくても。

さて、何にチャレンジするかは、人様々でしょう。

自分の心を満たす、価値観を満たす理想、夢等様々。
最初から高い利得、結果を目指して動かないが方が賢明かと思います。

なぜなら、経済的成功、名声・名誉の獲得は、何かを成した後の、ご褒美のようなものであり、獲得には大変な困難さを極めますが、自分の心を満たす、価値観を満たす、夢、楽しみを掲げてチャレンジすることは、無理をしない範囲で、自然と活動出来る気がするのです。

多少、無理をされて活動したとしても、自分の好きなことを目標と掲げていますので、無理が無理とならなない。
無心、無我夢中の境地に入られることでしょう。
その結果、何らかの成果を上げ、それが評価され、結果として経済的成功、名声・名誉を獲得される場合もあるでしょう。

また、自分の心を満たす、価値観を満たす理想 夢、楽しみを掲げ前進、チャレンジする生き方の方が、その目標達成には困難を生ずる時も多々あるでしょうが、生き方にも余裕があり、視野狭窄にも陥らず、私利私欲に走らず、その掲げる目標、夢に共感出来る人々も集い、人生を楽しめる気がします。

それは、「他者からの結果として評価を得ること 経済的成功 名声・名誉の獲得」には、つながらないかもしれません。

しかし、人生とは何かを成す以上に、何を体験・経験するか。
そして、最終的には、蓄積した体験・経験を知恵へと昇華し、自己の哲学、己なりの賢を得ることが、人生において重要ではないか、私は人生をこのように思っています。

また、人生とは、出来る範囲内において、自分に出来ることを最善を尽くす。
今は大きなこと(評価対象にはならない)にはつながらないかもしれませんが、コツコツと努力を重ねるうちに、自然と大きなムーブメントをつくり、「大きな何かを成すことにつながる」かもしれません。

さて、「何かを成す」ことを人生の目標にすることじたいについては、私は生きる目標設定もあり、素晴らしいことだと思うのですが、あまりにも、大きすぎる、難関な目標を掲げてしまうと、それが出来ない時、自分は何の価値もない人間等、レッテルを貼ってしまうことが心配です。

もう一度書きますが、経済的成功 名声・名誉の獲得とは、本当は、「何かを成したけ後の、ご褒美としてついてくるもの」であり、最初から、経済的成功、名声・名誉の獲得を、人生の目標にすることには、無理があると考えています。

以前、テレビで年配の方(70歳以上の方)の生きがい等、拝見したことがあります。

皆、自分に出来る無理をしない目標の達成、趣味、好きなことを楽しむ等。
無理をしない範囲でご活躍、ご活動され、素敵な笑顔を拝見出来ました。

「それ程度なこと、何かを成したことにはならない」等、批判する権利は誰にもありません。

私はカウンセリングを行うか、このように文章を書くしか、能のない人間かもしれません。

でも、「何かを成した人生」、「何も成せない人生」等、そのような思いを手放して、日々、自分が出来る範囲においてコツコツと最善を尽くし、自分に対するネガティブなレッテルを持たない方が、肩の張らない生き方と在り方のように思います。

世界的規模において、経済は縮小します。
お金だけがすべての時代ではありません。
また、名声・名誉に駆られているとしたら、自己の心理、劣等感、及び、優越への欲求の心理を内省してみてください。

資産とは、健康、時間、人間関係も含まれます。
そして、最善を尽くして過ごした日々の蓄積、経験も大きな資産なのではないでしょうか。
むしろ、この4つを大切にされた方が、今後の社会情勢を考えると、人生の満足度を高めるのではないでしょうか。

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