批判と疑いの心理 知性と思い込み
批判。
疑い。
あまり人からは歓迎されない言葉です。
また、批判、疑い、この内容に関して発信すると、発信する方に嫌悪を感じる方もおられることでしょう。
さて、批判とは何でしょか。
1 物事に検討を加えて、判定、評価すること。「事の適否を批判する」、「批判力を養う」
2 人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じること。
3 哲学で、認識・学説の基盤を原理的に研究し、その成立する条件などを明らかにすること。
(goo辞典より引用)。
さて、批判とは上述のように定義されていますが、物事、他者の意見、思想等を批判するためには、自己の思想、物事、価値観に関する定義を自己が有しおり、それに反する意見、行い等に対して、賛成の立場を取ることは難しく、批判が生じるのだと私は認識しています。
さらに、私はその人の思考力の影響、疑う知性、そして、その人独自の正義感、さらには根拠の曖昧な、その人独自の好き嫌いの感覚、感情よりも、批判は生じると考えます。
このように考えますと、批判とは、刺激(起こっていること、発信されている意見等)に対して、様々な個人的思考、感覚等の判断過程を得たゆえに起こる結果である現象と認識出来るのではないでしょうか。
誰でも、様々な思考、感覚を持ち、その結果、批判心、または実際に批判することは生じます。
人としては妥当なことです。
しかし、批判において大切なことは、自身の抱く、批判内容を表現するか否か、また、表現するのであれば、どのような方法で行うかです。
批判心は誰でも抱くものですが、批判を個人攻撃等のために発信することは、歓迎しません。
自己の考えと違う人は多々います。
個人攻撃のための内容の薄い批判は単なる怒り、傲慢の発散に過ぎません。
したがって、批判の発信内容においては、批判して他者を馬鹿にするような態度は、批判ではなく、誹謗、中傷のレベルと考えます。
では、どのような時に批判が生じるか、少し精緻に考えていきたいと思います。
1 自己の論との相違
2 疑いの心理
3 正義感に基づく心理
4 嫌いな人への理由のない批判 他者を貶める心理
1 自己の論との相違
他者がある内容に関して、自己の思考、価値観等と真逆のことを発信している。
この時、人はその他者の発信内容に対して、批判心を抱くことでしょう。
あの意見、説は間違っている。おかしい等。
しかし、前述しましたが、人は皆、思考過程の結果、何らかの意見等を持つものです。
また、その自説を表現(もしかしたら、単にインフルエンサー等の言っていることを真似して自説の如く発信しているだけかもしれませんが)、発信する権利を有しています。
自分の考えと違う意見を目にする、耳にすると、人とは自己中心性より、他者の説に対しておかしいと感じ、怒りもわき、強い批判心が出てくることも理解しています。
さて、クールダウンするとすれば、相手の説のどこがおかしいのか、それを理論的に完璧に反論出来るでしょうか。
この世に完璧に打破することが出来る、論理、理論は存在しないと私は思っています。
これが、私の様々な意見、説、主張に対する見解です。
したがって、皆、各々が様々な意見、説を抱くことに問題はないはずです。
でも、人は自己の信じる、または、考えた結果の意見、論と違う、論等に対しては、一点突破して論破しようとする傾向がありますが、実のところは、自身の論にも脆弱な点があり、論破されることも認識しておく必要はあるでしょう。
この点については、主観的観点の高揚感の高まりから、自分では認識出来ていないだけのことなのです。
批判心を抱く、相手の意見を認めつつも、論議することは、自己の論を高める等にもつながり、知性の向上にも役立つでしょう。
しかし、寛容性のなさ、怒りから相手を罵倒、非難の発信をしていては、これは批判ではなく、単なる悪口です。
自身の人格、知性が疑われる行為であると、ご認識ください。
2 疑いの心理
ある意見、説、情報に対して、疑いの気持ち、自らの思考、判断から、それらに対して批判的(おかしい等)な態度を取られることもあると思います。
「疑う」と書くと、人を信じられない人と思われるかもしれませんが、現代のSNSを中心とした、フェイクの世界に生きる私たちとしては、疑う姿勢、疑問意識を抱き、相手の発信を客観的に分析することは、大変重用なことであり、ある意味、サバイバー術といっても過言ではないでしょう。
疑うこと。
特にお金に関する甘い話し。
おかしいと疑ったら、すぐに、検索にかけて調べる、それでも分からなければ、消費生活センター等に問い合わせてもいいでしょう。
疑うことは知性のひとつであり、疑うことより、「そんな甘いバカげた話しはない」等、正論の批判もうまれ、詐欺師の手に落ちずにすむのです。
フェイクにあふれれた現代。
誰が発信しているのか分からない、SNSの発信は疑って、調べ、考え、自身にとって最良の結論を出しましょう。
3 正義感に基づく心理
現代のネットの誹謗、中傷の発信は、正義感から出たものであると、よく耳にします。
しかし、その正義とは何でしょうか。
誹謗、中傷は正義ではなく、知性の低さを証明していると私は考えています。
それとも、暇なのでしょうか。
または、怒り、ストレスの発散。
私がNHKの番組で何回か耳にしたのは、SNSにおける誹謗、中傷は、中高年の男性、かつ、社会的に立場のある人達(会社の管理職クラス)が、正義感より、批判を超えた、悪口を書きまわっていると情報を得ていますが、「疑うことの大切さ」、その情報はどのような調査方法により集めたのでしょうか。疑問が高まります。
(確かに、会社の管理職となると業務のストレスも高く、仕事外でのストレス耐性の低さも十分認識出来ますが)。
さて、正義とは自分なりの正しさにおける思考、行動です。
したがって、人の数だけ正義は存在することになります。
そして、よくよく考えてください。
実は正義の裏には、憎しみの感情が隠れていることが多々あるのです。
憎しみのもとは、悲しみ、怒りです。
そして、これらの感情を彷彿(もしくは過去の出来事)させる相手等に対して、無意識に怒り、憎しみの感情がわき、許せないとなることもあるのではないでしょうか。
あなたの正義感に基づく発信は、憎しみの発信である。
この仮説を認識したうえで、発信してください。
それも、誹謗、中傷ではなく、穏やかな批判論として。
また、確かに、SNS等においては、自分勝手な発信ばかりする人もいて、多くの人が読んで不快な思いをされることもあるでしょう。
このようなバカげた発信は許せない。
正義感より、その発信者に対して、批判を超えた、誹謗、中傷を衝動的にされることもあるでしょう。
お気持ちは分かります。
しかし、その行為は、もともとの発信者の低レベルと、同じことをされているのではないでしょうか。
そのような者、相手にしなければいいのです。
その発信者の文章等を読み続けるから腹が立って、怒りがわいてくるのです。
怒りたいからお読みになっているのでしょうか。
私は読む価値がないと思ったネットにおける文書は、クローズします。
時間の無駄ですから。
さて、正義と自己の怒り。
この違いを、しっかり認識してください。
私はこの世の正義は、法により執行されるもののみ。
このように思っています。
したがって、私自身、私の人生において、正義と思って取った行動も多々ありますが、それらは自己価値、判断における行き過ぎた遂行、または、怒りに基づく正義感であろうということは承知しています。
しかし、どうしても、正義感を振り回したいようです。
私自身の不寛容の問題なのでしょうか。
4 嫌いな人への理由のない批判 他者を貶める心理
自分と性格の合わない人。
生理的に受け入れられない人。
好きになれない人。
もしくは、過去、トラブルの合った人等に対しては、私たちは、その相手に良い感情を持てません。
実際、それらの方に対して、良い感情、好意的な気持ちを持つ必要もないでしょう。
「嫌いな者は嫌いで良いのです」。
無理に感情を曲げようとしても、難しいことです。
(でも、あなたが嫌いと思われる方は、その方の長所等をまったく考慮されていない場合もあるかもしれません。美点凝視。これは難しい)。
さて、嫌いな人、生理的に合わない人は誰にでも存在するでしょう。
大切なことは、その感情は、その感情として脇に置いておき、攻撃、悪口、誹謗、中傷しないことです。
嫌いな人等に対しては、どうしても、その人の欠点に目が先ないくのが私たちの心理のようです。
したがって、批判心もわいてくるでしょう。
でも、抑えましょう。
いずれにせよ。
人、様々。
いろいろな人がいます。
合わない人とは、心理的には長距離を置き、事務的に接するのが一番です。
嫌いな人って、どうでもいい人でしょう。
どうでもいい人は、どうでもいいのです。
知ったこっちゃありません。
しかし、誹謗、中傷、悪口等の吹聴は控えましょう。
これらの行為は批判を超えています。
それに、これらの行為はあなたの人間性を落とし、あなた自身にブーメランのように返ってくるでしょう。
言葉の使い方は慎重に。