SNSの誹謗・中傷と反対意見の表明について

1 SNS 誹謗中傷の心理
2 反対意見の表明の仕方について思うこと
3 匿名の発信に関して思うこと
4 表現の自由と先人の想い

今、SNSにおける個人攻撃、誹謗・中傷が社会的に問題化しています。
いずれは法整備化も進み、行き過ぎた誹謗中傷を書き込んだ者は、即特定され処罰対象となるでしょう。

1 SNS 誹謗中傷の心理

私はSNSをしていないので、他人のSNSも見ません。
SNSには、SNSの利便性があり、ここまで普及しました。
この事実、価値は、認めます。

しかし、人とは利便性と同時に、その道具、ツールを持った人の一部は、開発者、創始者も想定していなかった、想定外の使い方をするものです。
それが、今。問題となっている、SNSにおける誹謗、中傷の問題です。

では、SNSにおいて誹謗中傷する人達は、どのように心理、人格なのでしょうか。

他者攻撃性による満足感

人は自分の意見と違い、かつ、その意見に反感を抱くと、相手の知性、知能を見下す傾向があります。(端的に書けば、バカにする傾向です)。
ここまでは、通常の心理です。
なぜなら、人間とは自己中心性であるからです。

しかし、SNSの世界においては、反感を抱いた相手に対して、簡単に、誹謗中傷する文字を送信すること、相手の心を傷つけることが出来ます。

自分が気に要らない、思想、意見が存在することは当たり前です。
なぜなら、思想は基本的に自由なのですから。

しかし、見ず知らずの人の発信した(誰も傷つける意図がない文章、画像等)を、気に要らないと、自己の不寛容さから、匿名にて人を傷つける誹謗・中傷の文字を送信することを、正当化出来るのでしょうか。

気に要らないから攻撃。
不寛容性の爆発。
そして、この行為は、現代の閉塞感を抱く、私たちのストレス発散にもつながるでしょう。

また、これらの人は表と裏の顔を、SNS内において、使っている気もします。
良識人を装った自己、そして・・・。

自分勝手な正義感

最近、「新型コロナウィルスに感染」された方が、自分の辛かった体験、今の体の状態等発信されることが多々あります。

これに対しても、誹謗中傷のメッセージの嵐とか・・・。

新型コロナウィルス感染の苦しみを発信した方は目立ちたかったわけでもなく、感染に注意しましょうとの思いから発信されただけだと思いますが。

さらに、地方においては「新型コロナウィルスに感染」された方の名前、住所、勤務先等も公開されるとか。

「新型コロナウィルス」、そのものに対する、不安と憎しみは、私も抱いています。
だからといって、感染された方を攻撃するのはいかがなものでしょうか・・・。

感染者は「悪」という、自分勝手な正義感に基づく怒りからの発信でしょうが。
大都市においては市中感染が多発しており、いくら注意しても、防ぎようがない時もあります。

自分勝手な正義感から、コロナ問題に関わらず、他者を誹謗中傷するクセのある人は、よくよく、自分を振り返ってください。

注目を浴びたい 自我拡大欲求

他者を誹謗、中傷して、注目を浴びたい、「いいね」をたくさんもらい、そして、自我拡大欲求を満たす方もおられると思います。
特に誹謗、中傷等の怒りを含む投稿は、他者との感情共有を得やすく、逆に、他者の反感もかいます。

いずれにせよ、「炎上」によって、自分が注目をされたい為に、他者を誹謗、中傷するのは、言語同断と考えます。

復讐

誰かに対する復讐心から、その方をおとしめ、辱めるために、SNSにおいて、あることないことを書きたて、誹謗中傷する人もいるでしょう。
公然たる誹謗中傷は、対象者の名誉を傷つけ、心も傷つける、立派な犯罪でしょう。
復讐心を満たすために、SNSを利用すること等、開発者も考えていなかったことでしょう。

いじめ

記述するまでもなく、いじめの道具としてSNSは使われています。

SNSの誹謗中傷に関しては、世界中で問題視されているようです。
以前から書いていますが、システムの進化・変化は、私たちの良心、良識を変えます。
その為に必要なことは、何をして良いのか、何をしたら悪いのか、明文化し法整備を急ぐことです。

人の良識と良心が、テクノロジーの進化によって、失われつつあるのであれば、法による強制執行と教育は必須と、私は考えています。

2 反対意見の表明の仕方について思うこと

SNSにおいて誰かが発信した内容に対して、反対意見を発信される方もおられることでしょう。
反対意見の表明は、思想の表明、言論の自由であり問題ないと考えます。

では、誹謗中傷と反対意見の表明の違いは何でしょうか。
おそらく、反対意見の表明に、そもそもの発信者の悪口が書かれていなければ、誹謗中傷ではないでしょう。

反対意見の表明について、私の思うことですが、わざわざ相手を名指して、反対意見を表明する必要はないと考えます。
もちろん、政治討論等の場合でしたら、政策論争もあり、党名・党員を名指しして反対意見を表明する必要もあるでしょう。
そうしなければ、議論にならない時もあるでしょう。

でも、私個人は、他者の名前をあげて、反対意見を表明して、他者を攻撃するようなことは好みません。
また、その必要も感じません。

仮に、私がその方に対して反対意見を表明するとすれば・・・

その方の意見から、私なりの自己の意見、考えを構築、「私」を主語に、自己の論として、意見、考えを書くでしょう。
この、ホームページでの記述のように・・・。

どうしても議論すると、人とは自分の正しさを証明しようと熱くなり、他者攻撃、誹謗中傷と発展するので注意が必要です。

他者の意見への否定を破壊と捉えるのであれば、自己の意見を創造すれば良いのです。
自分にとって受け入れ難い意見があれば、自己の思考より、新たな意見を創造、発信する良いチャンスではないでしょうか。

3 匿名の発信に関して思うこと

匿名で発信する人もいることでしょう。
匿名で発信する心理は、反対意見や、報復意見を恐れてのことです。
多くの、誹謗中傷は匿名でなされていると思います。
報復を恐れ、正義の審判を恐れているのでしょう。

しかし、全ての匿名の発信が悪いわけではありません。

SNSからは、はずれますが、隣でいつも子供の泣き声がする。
虐待の疑いを感じる。
このような場合は、児童相談所に通報するのが一番でしょうが、本名で通報して、後々、相手に恨まれるのは恐ろしい。
このような場合は匿名での通報が望ましいでしょう。

匿名=悪。
ではないのです。
正しい行いのために、匿名を使う場合もあるのです。

4 表現の自由と先人の想い

SNSの誹謗中傷に対して、表現の自由という主張もあります。
私は犯罪行為に自由は認めません。
たまたま、システムの進化が早く、それに伴い、人の良識力が追いついておらず、かつ、法整備が追いついていないため、誹謗中傷も表現の自由として一時的に通っているだけと思っています。

さて、私たちが安全に暮らすためには、何が必要でしょう。
それは、「制限の中の自由」なのです。
制限(法と裁き)があるからこそ、私たちは制限を逸脱しない限り、安全に暮らすことが出来るのです。
SNSの世界も同じはないでしょうか。

それから、もう1つ、重大なこと。

「表現の自由」とは、いつから確立されているのでしょうか。
当たり前のように、「表現の自由」と皆、言う。
しかし、当たり前は当たり前ではない。

実際、私たちが表現の自由を獲得するために、どれだけの先人の想いと、儚さがあったことでしょうか。
そのことを考えてみることも大切なのではないでしょうか。

SNSにおける誹謗中傷の自由のために、先人達(運動家)は権力に対して翻り、無念に散っていたのではありません。

それに、国によっては言論統制もあり、表現の自由が認められていない国もまだまだあるでしょう。

「表現の自由」とは、尊いものなのです。

参考までに。
先日、SNSで誹謗・中傷を投稿した人の割合は、全ユーザーの1%に過ぎないと、NHKで放映されていました。
しかし、分子が分かっても、分母(使用ユーザー数)が分からないのが残念。

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