自分に興味がないと人生の失望を招く

自分に興味がない。

人生の主役である、自分に興味がないと、人はどのような心理状態で生き続けなければならないのでしょうか。

私も子供時、青年時はまったく自分に興味がありませんでした。
自分に興味がないということを、もう少し、深く考えると、

それは、「自分なんてどうでもいいという思い」。
自分はそこに居るのだけれど、いない感覚。
自分はどうでもよく、いてもいないような感覚から、他者もどうでもよく、他者も存在しない感覚。

そして、自分に興味がないということは、自分が何が楽しいのか分からない感覚、私は、自分の今の感情が分からない感覚が常にあり、生きているということが、実感しにくいとも感じていました。

その結果、人と関わっても、今ひとつ楽しくなく、逆の面倒臭くになり、「孤独」を選択しました。

しかし、人によっては、自分に興味がないということは、自分以外の何かに興味を持つことが難しく、人との会話は、他者に合わせることが中心となり続け、無理をしておもしろくもないのに笑い続けてみたり、「自分の感情が分からない」、苦痛の現象を招いてしまいます。

自分に興味がない。
そして、自分に興味がないと、当然、自分の趣味嗜好、やりたい仕事等も分からない状態になり、その興味のなさは、生きていることに対する虚しさ、無機質的な自分につながっていきます。

私の場合は、人と合わせない、孤独派であり、なぜ、「自分は生きているのだろうか」。
常にこの問にぶち当たっていました。
しかし、未だ答えは分かりません。
(そもそも、答えはないのでしょうが)。

では、なぜ、私たちを苦しめる、自分に興味がないという現象、悩みは、生じるのでしょうか?

私はひとつの原因として、「自己抑圧」が大きな問題ではないかと考えています。

誰も好きで、自己抑圧型の人間になるのではありません。
赤ちゃんは生まれた瞬間大声で鳴き叫び、多くの幼児は好き放題、大声をあげて走り回ったり、ここに、自己抑圧の姿は見えません。
むしろ、思う存分な自己解放の姿をみます。

もともと、多くの人は生まれた時から、自己解放的な姿で生まれてきているのかもしれません。
それは、生命力の解放とも言えるでしょう。

では、いつから、私たちは自己抑圧で悩むようになるのでしょう。

考えられることは、幼児期、子供時の親や周囲との関わり、学校でのいじめ、職場でのパワハラ、夫婦間におけるモラハラ、DV等。

共通していることは、強者、大勢の者から否定され続け、心に傷を負ったり、過剰な自己防衛、その結果、脳機能が一部異常、過剰に動くようになったと考えられます。

当然ですが、強者、大勢の者からの否定は、自己の尊厳を破壊して、自己無価値観、こんな自分なんて、自分は生きていて良いのかという感覚、自己萎縮を生じさせ、結果として、

・人との関係性を築くことの難しさ(対人不安)
・社会不適応感(自己価値低下)
・人に合わせ続ける問題(自分が何を感じているのか分からない)
何をしても楽しくない等

自分の殻に入ってしまい、その中で震えて生きることにもつながりかねません。

そして、この問題は、「生きている実感の希薄さ」、「強い自己否定感」にも関係してくるでしょう。
また、自分に興味がないと、「何をしても無駄」という虚しさの感覚さえ抱き、何かにチャレンジして得られる、「自己肯定感」を育むことを阻害します。

そして、最終的にこれらは、「人生に対する失望」という感覚をもたらしてしまうのです。

さて、私はいつも書いています。

人から受けた傷は、人を通して、癒すしかない。

「希望」は、これから出会う人との関係性の中に見出せると思います。

そのためには、「自分に興味がない」という、自分が自分に抱く感覚は脇に置いておき、何か少しでも興味があることをしてみる。

「こんなことやって、どうする」等思わないこと。

また、絶対にやりたくないことは、やらないこと。
自己抑圧感を膨らましてしまいます。

否定をもたらす、余計な自己分析はしないこと。

目の前の事に最善を尽くし(自分のネガティブな感覚から離れる)、疲れない範囲で人とのコミュニケーション、付き合いをすること。

さて、まとめです。

自分に興味がないと、無理をして人に合わせて、人とつながっているようでも、自分の言いたいことは言えず、孤独感を持つでしょう。

だからといって、1人ぼっちになってしまうと、これも「孤独」です。

最終的に自分に興味がないという感覚を強めれば、強めるほど、孤独感は膨らみ、生きていることの虚しさを感じ、人生そのものに失望、絶望することにつながっていくのです。

そうならないためにも、楽しみと、人間関係は維持したいですね。

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