ひきこもる理由の様々-2 ひきこもった後の問題
前回の続きです。
4 自分が自分に課した期待を達成することが出来ず傷つき、絶望してひきこもる場合
自分が自分に課した期待とは何でしょうか?
それはこうありたいという自己像ではないでしょうか。
有名大学に入った自分、一流企業に入った自分、会社内で誰よりも早く昇格をしている自分、子育てを問題なく行っている自分等。
人は様々な自己像を描きます。
そして、その自分に課した目標が達成出来ないと、理想の姿が実現出来ないと、自己像の崩壊より傷つき、自分に絶望してしまい社会からひきこもることもあります。
社会が自分を受け入れないというよりは心理的ショック、自己愛の傷つきにより、自分が自分を受け入れることが出来ずひきこもってしまうのです。
またこのショックは人生に対する無力感、人生に対する絶望を感じるかもしれません。
さてこの場合「描いた自己像」と「現実」について考える必要があるでしょう。
理想と現実には必ずギャップがあります。
それを認識することです。
そして現実を受け入れることです。
現実が受け入れられないとすればそれはなぜか?
そして、そもそもその自己像はどのようにして作られたのか?
じっくりと考える必要があります。
このようにひきこもる理由は様々です。
疲れて傷ついたのであれば「休養」も必要です。
ひきこもることを「休む」ことと捉えれば、それは大切なことだと思います。
しかし、社会復帰に際して重要なことは休んでいる期間の長さが、どう捉えられるかです。
ひきこもっている期間なのです。
とくに社会復帰に正規就業が関係してきますと採用するのは企業です。企業はなぜその人がひきこもっていたのかその理由には興味はありません。
ひきこもっている期間が長ければ、長いほど、マイナスなのです。
ひきこもること(休む)ことはやむを得ないとしても、そこからの復帰は選択を伴う自己責任です。
ひきこもったあと
無事に社会復帰を果たせば問題はありません。
しかし、社会復帰を果たせなければその悲しみと怒りをどこに向けるのでしょうか。
怒りが向く方向は自分か、自分以外です。
自分に怒りが向く場合は何らかの方法で自分を傷つける、自己の崩壊にすすむかもしれません。
何らかの病気を患う、精神を患う、リストカット、自殺等です。
また自分以外に怒りが向く場合とは、自分以外の何かに怒りが向きます。
それは親であったり、社会です。
親に対しては自分がひきこもらざるを得ない状況に追い込んだ、子育ての責任から親に怒りを向けます。
⇒ひきこもった責任は親にある。
社会に対しては自分を受け入れない社会に対する怒りです。
そして、この社会とは自分以外の他者なのです(短絡的な発想です)。
さて、この怒りを親や社会に向けることに妥当性はあるのでしょうか。
私はないと思います。
なぜならひきこもりからの回復の責任は自分の責任だからです。
どのような理由でひきこもるにせよ自分の人生です。
自分の人生を背負えるのは自分だけです。
カウンセラーもクライエントの方の人生を背負うことは出来ません。
そして責任論。
どの時点で社会復帰を目指すか、その選択責任は生じます。
早期に復帰を目指せばそれほどの問題はないかもしれませんが、数年に及ぶひきこもりの期間がありますと企業の採用には通らないかもしれないのです。
ですからひきこもり期間の長い方は企業での雇用を目指すより、自分の才能を活かす、資格取得、地方におけるコミュニティ参加、起業する等、他の進路に生きるということを見出してもいいかもしれません。
最後に。
ひきこもることは休養です。その時には必要不可欠なことなのでしょう。
休みながらも自分をみつめなおしてもいいかもしれません。
しかし、ひきこもりからの回復、社会復帰の時期選択は自分の選択責任であり、この限りにおいては誰の責任にも出来ないこと。
人生とは自分とは何者であるかを証明する場である。