何も出来ない自分を認めて良いのか
「私はコレと言って、何もできない、特技もない、そんな私を認めていいのでしょうか」。
(自己無価値感)
このような問題で悩んでいる方もおられることと思います。
しかし、「何もできない人」等、存在するのでしょうか。
(尚、今回の記事内容につきましては、健常者の方をテーマとして書かせて頂きます。そうしなければ、記事内容が膨大になり過ぎるからです。その点、ご了承のうえお読みください)。
さて、「何も出来ない自分を認めても良いのか」。
私は何も出来ない人等、存在しないと思っています。
例えば、料理、洗濯、買い物、テニス、ピアノ等、その人、その人、様々なことが出来るのではないでしょうか。
もちろん、料理は出来るけど、ピアノは弾けませんと、仰るかもしれません。
そうなると、全てを出来る人はいないということなのです。
この社会においては、様々な仕事(有給・無給)があり、様々な能力、出来ることが要求されます。
しかし、全ての仕事に対して、対応出来る能力、全てを身につけている方はおられないでしょう。
このように考えると、「全てを出来る人はおらず」、また、「何も出来ない人は存在しない」ということになります。
それでも、「何も出来ない私」で悩んでいる方は、次のように仰るかもしれません。
「洗濯、料理ぐらい誰でにも出来ます」等。
「私には特別に出来る何かがないのです」と、仰るかもしれません。
そうなると、「何も出来ない自分を認めて良いのか」ではなく、「特別に何かが出来ない自分を認めて良いのか」と、テーマが変わるのです。
しかし、特別に何かが出来る人って、そんなに沢山おられますか?
特別に何かが出来る人。
おそらく、プロを指しておられるでしょうが。
何かのプロの方は、少数派です。
「特別に何かが出来ない私を認めて良いのか」。
この悩みは、特別に何かが出来ない限り、自分が自分を認められないという思いが強いのでしょう。
しかし、特別に何かが出来るプロは数少なく、何らかのプロにならなければ、自分を認められないとは、何を示しているのでしょうか。
劣等感でしょうか。
私は次のように考えます。
「特別に何かが出来る人は少ない」。
しかし、
「人はその人なりに、何か出来ることはある」。
「何も出来ない人は存在しない」。
そして、「特別に何かが出来る人」、プロも、その分野においてはプロであり、突出した能力を持っているが、全てのことが出来るわけではない。
「全てのことを出来る人は存在しない」。
人と比較しないことです。
そして、今、出来ている自分を認めることです。
特別な自分を目指さないことです。
多くの人は全てを出来ることはなく、何らかのプロでも素人である。
また、多くの人は素人であるが、何らかのプロである。
また、素人でも、出来ることはたくさんある。
出来ない自分を見続けるより、出来る自分を見続けましょう。
何も出来ない人等、いないのですから。