肯定的意味の創造
私たちはとてつもない苦労にぶつかった時、または悲劇に見舞われた時、そのことをどう捉えるでしょうか。
例えば突然の解雇失業、事故で半年入院、・・・。
どうしようもない絶望感、怒り、悲しみを感じることと思います。
「なぜ、自分だけが」「神は自分を見放したのか」「もう、生きていく力もない」。
怒りや悲しみからマイナスの側面をのみ焦点をあて、将来を絶望視してしまうかもしれません。
分かります。その気持ちは。
でも、時が過ぎ以前と同じように怒って、悲しんでばかりいて、失意から家に閉じこもって、何もしなければ・・・。
時間はどんどん過ぎていきます。
もちろん、人には選択の自由がありますから、ずっと怒り、悲しみ、その傷が癒えるまで永遠に何もしないでいることも出来ます。
どんなことにも意味があります。
必ず。
物事は陰陽一体です。マイナス面の裏側がプラス面です。
ですから、どんなに辛い出来事が起こったとしても、必ずそこにはプラスの肯定的意味が存在するのです。
例えば突然の解雇の場合です。
子供2人を抱える50歳の父親が職を失う。
悲劇だと思います。
その結果、大学3回生の長男は父から学費を払ってもらえないため、退学を余儀なくされるかもしれません。
母はパート勤めを開始、本人である父はなかなか再就職先が見つかりません。まさに経済的困難を経験するかもしれないのです。
では、ここに肯定的意味を見つけることは出来るのでしょうか。
第三者の私が客観的に見て、この家族において肯定的意味を見つけることは難しいです。
しかし、肯定的意味を見つけることは私の仕事ではありません。
体験している当人の仕事なのです。
もちろん一緒に探すことは可能です。
そして肯定的意味は、すぐには見つけられないかもしれません。
時の経過と共に事態は変わり、その意味が見つかることも多々あるのです。
長男は大学中退後働くことを選択、前向きに就職活動を行い就職をした会社で営業力を発揮。良き仲間にも出会えました。
母はパートで働くことにより、働くこと新たな人間関係を作ることに新鮮さと喜びを感じました。
父は失業後再就職も思うように進展しません。でも、この苦労を多くの同志と分かち合いたいと思い、アルバイトをしながら失業をした父親のコミュニティを創設することを選択。マスコミの脚光を浴びる。
逆境となる事態、危機が訪れたとしても、私たちの前向きな選択、その辛さの経験もプラスのものにしようと選択することで、人生の新たな肯定的側面に徐々に光があたるのです。それは私たちの発見を待っているかもしれないのです。
そして、「そうか、あの時の苦しみはこのためにあったのだ」と気付く時も多々あるのです。
辛さのなかでも前向きな選択を行い、辛い経験をプラスにしようとすることを選択することには、私たちの意志が大きくかかわってきます。
意志とは決意と言葉を変えてもいいかもしれません。
私のことを少し書きます。
私は37歳の時会社を退職しました。その時私は、自分が幼少期より経験をした様々な心理的苦痛、苦悩、これらを克服した今その経験を絶対的価値あるものにしたいという意志、決意のもと退職したのです。
私は楽しい子供時、青春時とは無縁でした。この時期を「陰」とします。しかし、陰陽一体と考えると必ず「陽」があるはずなのです。
私は自分の経験した陰の様々な経験を陽にするために、カウンセラ-になったのです。
そしてここには、過去の陰の経験を絶対的価値あるものにしたいという、肯定的意味の創造があったのです。
そうです。
意味は創造出来るのです。
私たちが何か辛い経験をしてそこから回復した時、その力は計りしれません。
その力をいかに人生に活用するか、そこに意味があるのです。
何か困難にぶつかった、辛いことが起こった、これじたいが人生からの問いかけなのです。
そして、その事態に対していかに振る舞うか、意志と決意のもと何を選択するか。
肯定的意味を創造するかどうか。
すべてを決するのは自分自身なのです。