人生を問う

前回は選択と責任について書きました。

私たちは選択を行います、すると責任が生じます。

人生は選択と責任の連続です。

そして究極の選択はいかに生きるかです。

それは人生に対する責任でもあるのです。

人生を選択と責任の連続体であると考えますと、ある悩みには有効です。
その悩みとは「何のために生きているか分からない」という悩みです。

多くの生き物がその生涯をかけてすることは何でしょうか。
「種の保存」、「固体の維持」です。

種の保存とは子孫繁栄、固体の維持とは生命維持です。
まず種の保存についてですが、人間は結婚を選択出来ますので種の保存、子孫を残すことを選択されない方もおられます。
それはそれでいいことです。

問題は生命の維持、固体の維持です。これは生きるということです。
人間以外の動物は大脳が発達していないので、「何のために生きる」とは考えず、生きること生命の維持に専念します。食べる、寝る、筋肉を動かす・・・。

しかし、人はそれだけではありません。
生きるがゆえに悩むのです。
当然です。

さて、「何のために生きているか分からない」この空虚感を伴う悩みは一体どこからくるのでしょうか。
生きることの目標の欠如でしょうか。

この問いに対する答えの1つとして、選択と責任論は有効です。

人生は選択と責任の連続です。そして選択をした以上は、それに伴う態度・行動が付随します。
この態度・行動こそが、人生を問うことに対する1つの答えかもしれないのです。

例えば会社に就職したものの、会社が倒産して失業をした若者がいます。
今、彼はこの人生の転機に弁護士を目指すことを選択します。
彼は司法試験に受かるために日々法律の勉強をします。

では、ここで、目線を変えます。

若者は会社が倒産して失業しました。ここで彼は「これからどうする」という、人生からの問いかけに直面したのです。
そして、彼は弁護士になることを選択しました。
弁護士になるには試験勉強をする責任を果たさなければなりません。
そして、彼は司法試験勉強に専念する態度・行動を取ったのです。

すなわち、「今後どうする」という人生からの問いかけに対して、司法試験勉強に専念する態度・行動で応えたのです。

では、弁護士を目指すことを選択したものの、勉強をする責任を果たさない場合はどうでしょう。
弁護士を選択したが勉強することを選択しなかった場合は、勉強すべき時間にテレビを見ること等よって時間を費やす態度行動で応えるのです。

会社が倒産し、「これからどうする」という人生の問いかけに対して、日々テレビを見るという、態度行動で人生の問いかけに応えたのです。
彼は司法試験には受かりません。そして、受験に失敗し際再び人生から問われるのです。

「これからどうする」と。この時また選択が生じます。そして、選択したことに対する責任とそれに伴う態度・行動・・・。

私たちは人生からの様々な問いかけに対して、選択と責任、そして態度・行動で応えているのです。
何が良くて、何が悪いとか、態度行動に対する価値判断をするつもりはありません。
人生の問いかけに対して、いかなる選択、態度行動で応えてもいいのです。

先ほど、目線を変えますと、書きました。

それは。
人生とは問うべきものではなく、人生から問われるものであるからです。

「何のために生きているか分からない」この問題で悩んでいるとすれば、目線を変える、もしくは、発想を転換すればいいのです。

「私たちは人生の問いかけに応えるために生きている」そう考えると、人生を問う悩みはなくなります、

逆に、「いかに人生の問いかけに応えるか」常に襟を正し、選択と責任に伴う態度・行動を考えるでしょう。

ここまでお伝えしてきた、選択と責任、態度・行動は、実存心理学者、ヴィクト-ル・フランクルから学んだことです。
フランクルは言います。

「我々が人生を問うのでない、人生のほうから我々に問いかけてくるのだ」

私たちは人生からの問いかけに対して、いかなる態度・行動で応えるか。選択責任を果たすか。

そして、私は思います。

選択したことに対して、いかなる態度・行動をとるかによって、私たちは自分自身、生涯をかけて人生に証明しているのです。

「人生とは自分とは何者であるかを証明する場である」

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